端午の節句はいつとるの???
こんにちは!トータルフォトスタジオCocoイオンモール小名浜店です
昨日はまさかの雨雪!4月なのに、だいぶ外もひえこみました!!!
イオンモール小名浜店では今年初!端午の節句フォト撮影させて頂きました~~!昨日もご紹介させて頂きましたが、とっても上手に撮影してくれましたvV
大型10連休まであと2週間!
5/5にはこどもの日がありますね(*^-^*)
スタジオCocoイオンモール小名浜店でも撮影ご予約受付中です!
それはそうと、、、
なぜ節句は兜や鎧、鯉のぼりなどが主流になったのか???
ふと疑問になりました。。
今回はお調べした内容を皆様にもぜひ知ってもらいたい!と思いブログにさせていただきましたので(*^-^*)ぜひ参考になればと思います♪ミ
端午の節句をお祝いする理由
「端午」とは、もともとは5月のはじめの午(うま)の日のことでした。それが「午」と「五」の音が同じことから5月5日が端午の日となり、5月は古代中国で厄払いの行事を行なっていたことから、5月5日が厄払いを行う日として定着しました。
その後、薬草である菖蒲(しょうぶ)は邪気を払うと考えられていたことと、菖蒲が「武を尊ぶ」という意味の「尚武(しょうぶ)」という言葉と読みが同じことから、鎌倉時代の武家では5月5日を尚武の節句として祝うようになりました。
それが江戸時代以降、庶民に広がって男の子の成長を祝う日となったそうです
鎧や兜を飾ることの意味は?
武将にとっての鎧や兜は、自分の身を護るための大切な道具でした。
このことから、命を守る象徴と考えられ、男の子を事故や病気、災害などから守ってくれますように。という願いを込めて飾るようになりました。
ただ・・・
当時の庶民が本物の鎧・兜を持っているわけも無く、飾られていたものは、張子などの作り物でした。
宮中では、素木しらき製の檜兜ひのきかぶとが飾られました。
身分の高低を問わず、外見を真似た作り物を飾ったのです。
これは、鎧・兜を武具としてではなく、精神的な象徴としていたという現れでもあります。
んな願いが込められています。
飾りの意味やモデルになった人物!
金太郎
金太郎のモデルは、坂田金時(公時)という平安時代に実在した人物だと言われています。
金太郎のモデルは、坂田金時(公時)という平安時代に実在した人物だと言われています。
坂田金時は、幼名を「金太郎」といいました。
全身が赤くて太っており、怪力を持った子供だったそうです。
友達は熊・鹿・猿などなど。
いつも鉞まさかりを担ぎ、腹掛けをかけ、相撲や乗馬が好きだったと言われています。
源頼朝に見初められ家来になった坂田金時は、四天王といわれる従者の一人となり活躍した武将です。
牛若丸
牛若丸は、源義経の幼名です。
父の死後、7歳で鞍馬寺に預けられ、そこで学問や武芸を磨きました。
その後にある、武蔵坊弁慶との出会いや歴史的な戦いは、有名なお話です。
牛若丸は、武芸の達人として良く知られる人物でもあります。
弁慶
その知恵と怪力で義経を支え、生涯、義経に仕えた武将です。
衣川の戦いにおいて、義経が立てこもったお堂の前に立ち、無数の矢を受けたまま絶命した、俗に「弁慶の立ち往生」と言われるお話しは、記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。
弁慶は、豪傑の代名詞としても用いられています。
鯉のぼりの移り変わりと色の意味
現在の鯉のぼりは「真鯉=父親、緋鯉=母親、青い鯉=子供」の3匹が一般的ですが、江戸時代には真鯉だけだったそうです。
緋鯉は、錦鯉を模したものと言われており、錦鯉が出回りだした明治時代から出始めたのですが、当時の緋鯉は子供を表していました。
青色の鯉が子供で、赤色の緋鯉が母親を表すようになったのは、昭和に入ってからのことです。
実のところ、鯉のぼりの色は、真鯉の黒が決まっているだけで、他の鯉の色は決まっているわけではありません。
より詳しく知りたい!方はこちらまで(*^-^*)
参考サイトhttps://ii-nippon.net/
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